2020年5月5日火曜日

カメラメーカー、セディックのお話

先日Twitterでセディックの元社長の娘さんからDMを頂いた。
私が以前Twitterでセディックの話をしていたのを見つけて下さったらしい。

セディックは1970年代から80年代にかけて、国内外の110カメラを多く手がけた日本のカメラメーカーである。
また、富士フィルムにミラーシャッターの一眼レフ(大島繁氏が開発)を供給していた。

しかしながら現在は倒産しており、このメーカーの資料は現在ほとんど残っていない。

ありがたいことに、82歳になる元社長の大島博さんがセディックに関するインタビューに答えてくださるとのこと。
今回はその回答を掲載する。

主な質問は、下記のようなものである。

・セディックの歴史
・おもな輸出先
・他のカメラメーカーとの関係

以下はその聞き取りを長女の司さんがまとめてくださったものである。
(話し言葉など、一部表記を改めています)

セディックの設立は、大島繁伯父と伯父の友達の山崎義雄が代表で立ち上げたそうです。

東京の中央写真用品株式会社に繁、山崎、父と三人でいましたが、退職し、セディックを設立したそうです。

静岡の露出計を作っている人の工場と合併するために、静岡へ来たそうです。その工場を仕切っていたのが博(父)です。私が三歳の時に、東京から、静岡へ越してきました。

カメラは、輸出が主で、日本一だったそうです。

オーストラリア、ドイツ等各国へ輸出していたそうです。

今のカメラ博物館の所にカメラ検査場があったと言ってます。

110はセディックで輸出していたそうです。富士のカメラは35EFが主だったそうです。コーラの缶のカメラもセディックでした。写るんです。の開発がセディックでした。レンズを低コストにするのに20年かかったと言ってます。

ペトリ、ニコンなどで問題があったカメラの解決を繁が全てしていたそうです。
伯父は、すごい人でした。

余談ですが、盗聴器、振動でピカピカ光おもちゃ、音で動くおもちゃ等の開発もしてました。カメラに全然関係ないのに沢山アイテム持ってました

繁が中学生の頃(戦争中)学校の放送器具を作ってNHKで放送されたそうです。

岩田エンタープライズさんは、おもちゃカメラを作っていたそうです。

写るんですを開発したころ富士フィルムの社長が経理あがりの専務にかわり、セディックが切られ倒産したそうです。4トントラック三台分のカメラの代金が切られて倒産に至りました。と言ってます。
負債額が45億だったそうです。私もなかなか大変でした。

後に、私の妹が漫画家になりました。シュート!を書きました。大島司です。私は凡人ですが、家族は、凄いです


興味深い発言がいくつもあるので、今後もインタビューをお願いしていこうと考えている。